21世紀 市民のメディアを考える

 

現代社会において、政治・経済情報の広範な伝達にマスメディアの存在は必須であり、マスメディアなくして現代の民主政治は存立しえなかった。近代における民主主義社会は、新聞をはじめマスメディアの発達によってこそ可能であったといえる。

不特定多数の受け手に向けた情報伝達手段となる、新聞雑誌ラジオテレビ放送など現代のマスメディアの多くは、営利企業として営まれており、利潤の獲得や経営の安定が何よりも優先され、地域・国土の民主主義的発展と矛盾することがある。

 情報技術の著しい変化と、21世紀社会の民主主義的発展に相応しいメディア(情報伝達手段)の役割を考えるとき、変化は徐々に進むと思われるがメディア像の転換が想定される。

 

   20世紀 マスメディア  ――   21世紀 市民のメディア

中央管理機能からの情報の流れ     地域創造活動からの情報の流れに力点が

 

マスメディア=新聞・雑誌・放送――地域情報・同人誌・交流誌=パーソナルメディア

アナログ(紙媒体)=新聞・雑誌――インターネット・SNS=デジタル(電子媒体)

 

21世紀は、インターネット利用が急速に普及する一方、旧来のマスメディアの相対的位置付けの低下が徐々に進行している。インターネットの利用が激増する一方で、「GAFA」などに代表される、新たな情報の担い手=プラットフォーマーが急伸しているが、これらはあくまでも私企業であり、その果たすべき社会的な機能と、それを運営する組織の在り方の乖離は大きいといえる。

20世紀のマスメディアの特徴を「中央管理機能からの情報の流れ」と考えるなら、21世紀の市民のメディアが果たすべき役割は、「地域創造活動からの情報の流れ」にあると考えてみる視点も必要であろう。(こ)

 

 

ベトナム友好訪問――1974年11月16日~27日――

ベトナム友好訪問は1974年11月16日~27日にかけての12日間、私にとっても初めての海外旅行だった。思えば、長く続いたアメリカによるベトナム侵略戦争であったが、折しもこの4月30日は、サイゴン南ベトナム傀儡政権がついに敗走し解放戦線による臨時革命政府が樹立された歴史的な日である。それから僅か半年後の11月15日。

 かねて「ベトナム建築界に対する連帯支援センター」を通じて友好関係にあった日本の建築界へのベトナム建築家協会からの招聘に応じての訪問だった。その頃は、ドル持ち出しへの外貨規制があっ頃だったが、新建築家技術者集団の石川支部会員・畔柳信一氏、堀政靖氏および友人の土木技師・川島正彦氏とともに参加することになった。
 
 その年は、永山家も5月1日に二男の潤が誕生したばかりの目出度い年でもあり、勤務していた事務所の五井孝夫先生にも快くご了解をいただき、事前に金沢在住の日本ベトナム友好協会の漢方医・堀伊三男さんからレクチャーをいただき、今なら考えられないが、北國新聞の記者による取材もうけ、出発の際には金沢駅ホームで歓送会まで行われた。

 当時はドル持ち出しに外貨制限があった頃で、成田空港もまだなく羽田からの出国であった。高度一万二千メートルから見た台湾は印象深かった。香港ではトランジットで次の便まで短時間ではあるが、入国手続きをして小銭を両替し、外国人が右往左往するなか空港のトイレに入ると、出口で2mを超える黒人がタオルを渡すので洗面カウンターにコインを置く。なにか物を買うなどのサービスを受けるとチップを払う初体験。

 香港からの機内へ戻るや、様々な国籍の人たちが入り乱れ、いかにも国際線の風情。われわれはバンコックで降りるが、このあとニューデリー、カラチ、テヘランアンカラへと行く便らしい。機内食はどうだったか記憶にないが、バンコック空港に着いたのは現地時間の20時。

 外気温37度、湿度は98%はあるだろう、思わずメガネを拭いた。浅黒い空港職員もみんな薄い半袖シャツだ。引き摺ってきた重いスーツケースを預けてバスに乗り込み、ようやくマンダリンホテルに着いたのは夜更けだった。

 第一日目はバンコック市内観光から始まった。ガイドが「東洋のベニス」だというバンコックの水上生活風景は衝撃だった――その後訪れたベネチアの水上都市とはあまりの違いだ。

 第2日はバンコックの水上マーケットを舟で見学したあと、ワットアルンを見て、ビエンチャンへはタイ航空でゆく。トゥリスティック・ド・ラオスホテル。ビエンチャンでは、民芸館、ラオスの戦争記念館・寺院、市場を見学し翌日は愈々ベトナムだ。

 ハノイ・ジアラム空港まで、SU541ソ連機だ。パイロットも空軍兵士のような急降下の操縦だった。着後外貨交換、ベトナム側と打合せ、博物館、ホアンキエム湖など市内見学。愈々ベトナム友好訪問が始まった。

 このあとの記録は、友好訪問事務局の記録担当として関わった別紙の記録を参照されたい。
 

ベネルクス三国は、山岳地の多い日本とは違うが、その文化は?

ベネルクス三国は、国土は狭く(北海道ほど)人口密度は非常に高い。山岳地の多い日本とは違うが、その文化はどうだろうか?

☆来年は私たちも結婚50年を迎えるが、金婚式の代用で今回のベネルクスを思い立ったのも、普段歩かない罰で来年ではほんとに歩けないといけないので、1年早送りで実施したもの。希望は北欧や東欧にあるのだが、余りに移動ばかりに時間が掛かるので見送ることにした。☆ 今回はスペインやキューバ以来の久しぶりの海外旅行とあって、早くから予約していたのに、何も事前学習らしいこともできずに出発日を迎えてしまった。昨日は、統一地方選の後半が始まり、金沢市議会議員選挙の不在者投票を済ませ、身の回りのものをスーツケースに詰め込んで、早めに就寝。

☆ 4月17日、今日は前泊の日だが、名古屋城に寄ってゆくので、朝9時に自宅をスタート。スタンドでガソリンを補充し、久しぶりにタイヤの空気圧も調整して、北陸高速・森本インターから東海北陸自動車道名神高速を乗り継いで、初めての名古屋高速を丸の内で降りて名古屋城へ。途中、白山の裏側が見える、ひるがの高原SAで昼食するつもつりが降り損ねて関SAでの昼食となった。

 名古屋城では、最近完成したという二の丸御殿の復元などを見学、かつての徳川の威光を再認識することが出来た。自治体のこうした動きは、木構造文化の再確認を求める思考が働いている証であるが、単にそれだけに留まるのでは、文化の本来の力は発揮されない。現実社会への応用が進んでこそ意味がある。名古屋市はこの先、天守閣の木造化も検討しているようだが、だからどうだという意見もある。
 
 こちら名古屋は生憎の雨だったが、とりあえず、ここまでの動きは順調。車載ナビがないので、スマホのナビでセントレアホテルにセットしたら、高速ではなく下道を示したので、指示通り進んだ。市内は難なく脱出できたのに、そのあとが長かった。
 それでも途中、東海市知多市常滑市など知多半島の伊勢湾岸地域の変貌を、社内から見物することが出来た。思えば30年前に、知多半島の先端までドライブした頃とは大変わりで、今では海の近くにまで町並みが迫っている。これは、翌朝機内からも確認することができた。

 ところが、無事セントレアまでこれたのに、JTBで予約してあるはずの、セントレア駐車場の入口を見つけるのに手こずった上に、予約されていなかった。空港島へのアクセス形式が分かりにくく問題があると思ったが、初体験のこちらにも予備調査に問題があった。これが最初のトラブルだったが、なんとか屋上階に駐車することが出来た。「屋根がないのか」と思ったが、かえってホテルフロントからのアクセスはよかった。怪我の功名だったか。

☆ 4月18日、旅の第1日目は移動日だ。出国手続きを済ませ、7時間もマイナス時差のある長い空の旅に。北アルプス日本の屋根の春の雪景色を下にみて、日本海の上空を横切り、長いシベリヤのツンドラ地帯に飽き飽きしてきた頃、とうとう腰は痛くなるし、機内食と運動不足で朦朧としてきた。漸くスカンジナビア半島付け根に指しかかると、ヨーロッパにきたというイメージが湧いてきた。

 乗り継ぎのフランクフルト空港はEUの空の玄関だ。ターミナルビルに着いて、以前トランジットで入国した記憶がよみがえってきた。今では搭乗口が60もある(毎分一便の離発着)大空港になっている。最高の天気で、空港周辺の初めて見るマインツの俯瞰を満喫した。これがライン川か、曲がりくねる川面が日差しを反射して光り、高速道路は白く、森は深緑、牧草地は緑のグラデーションが美しい。

 ドイツの街まちは「砺波の散居村」ならぬ散居集落の様相を見せていて、日本の風景の特徴である、山岳の隙間に形成された僅かな平地に、集落や都市が生成するという地理的な必然性とはまた違った事情も明らかだが、風景・景観の自然的要素として、山、川、森、牧草地、街、道たちが、各々その個性を持って謳うような印象がある。この点、景観要素のあり方が、調和というよりも渾沌とした日本の大景観との余りの違いに心が痛む。

 明朝は、愈々アムステルダムの観光だ。まさにライン川の河口の水都。1960年、干拓地に出来たというスキポール(舟の墓場)空港。思えば産業革命以後、この都市が栄えるにはそれなりの理由があったようだ。空港から10分のホテル、ノボテル・アムステルダム・シティに宿泊し、明朝の朝食は6時30分で、7時30分出発だという。売店でミニワインを買ってきた。早めに寝よう。

☆ 4月19日、早朝の六時半に荷物を廊下に出して食堂へ。レストランは都心部のホテルでもあり、改修し洗練されている。あまり食べ過ぎないよう控えめに済ませて、部屋へ戻り手荷物を持ってロビーへ。愈々第一日目の出発。目的地へゆくみちすがら車内ではJTB現地ガイドの詳しい説明があって、アムステルダムの都市の成り立ちが理解できた。

 この地方は、ゲルマン人の住む地域で古代ローマ帝国カエサルの進出もあったが、湖沼地帯で役に立たないと放置されたという、ライン川のデルタ地帯だ。昭和60年代になって沼地を干拓し、空港のあるこの地区の整備された面積は、なんと国土の4分の1になるという。

 朝一番に、マウリッツハイス美術館フェルメール、ビネンホフ(国会議事堂)、平和宮を見学してから、朝一番乗りでチューリップ🌷をテーマにしたキューケンホフ公園を見学。品種は4600種類というオランダの大産業。ヨーロッパでは無敵だが、日本だけが驚異だという。収穫した花や球根は、翌日は世界中に航空便で送られる。4月はイースターホリデーがあり、日本の連休もあり多くの人出が予想されると聞いたが、早くも予想以上の人出に驚く😲広いキューケンホフ公園を一巡りし、今日は15000歩の大運動となった。

 午後はアムステルダムへ移動し、国立美術館を1時間見学。ゴッホフェルメールレンブラントと、つきない印象派の名画鑑賞が出来る美術館巡り。30年間、当地に住むという現地ガイドの説明は詳しかった。夕食は魚料理だ。

☆ 4月20日は、もう一つこの旅行の重点企画でもある、オランダを代表する風車だ。数年前のスペイン旅行での、ラマンチャ・コンスエグラの風車とは違い、キンデルダイクの風車は、今もかつての役割を再現するため一部を稼働させ、世界遺産に指定されるや、一段とその歴史遺産の技術的な意義が再認識されつつある。

 事実、風車はレンガ造4階建ての住居=一人ひとりの個室やリビング、キッチンがある=となって、家族経営で動かされていることが事実で確認できる。その昔、原初は奴隷労働で支えたという干拓事業。そうしなければならなかった風車という国土づくりの営み。この技術革新の、歴史的な意味を読み取ることがなにより大切であろう。
 
 また、風車とともに、跳ね橋の存在も見失ってはならない。ゴッホの名作「ウルルの跳ね橋」にも描かれるこの橋は、運河と水運には必須な都市施設である。氾濫など多くの失敗を重ねた干拓の歴史。今日では国土形成に不可欠な国を支える事業となっている。

 海面から4㍍低いこの干拓地が、国土面積の25パーセントを占めるオランダの泥炭地。このラインデルタが個性でもあるベネルクス三国は、地球温暖化への願いの発信地でもあろう。

☆ 4月21日、今日は既に、旅行も中日。朝8時の出発でキンデルダイクの風車を見学。2009年世界遺産に指定され一躍注目を浴びた一方で、近隣住民は多くの観光客に悩まされ、団体旅行への規制も強まっている。そのためもあってか、遠くから歩かされ、「団体ではなく個人」旅行として鑑賞しなくてはならないなど、世界遺産を維持する努力が求められている。


オランダからベルギーへ
 
☆ キンデルダイクの風車を見て、アントワープへ向かう。こちらは高速道路は全て無料だ。トールゲートは無い。4車線の高速道路を走りアントワープへ。車中、ガイドからベルギーの歴史について説明があって、「生きるために食べる」ベルギー人のこと。「食べるために生きる」のではないことについて考えた。

 この地区は、街路樹など全ての緑が計画的であるのも、国土の4分の1が干拓地であることの証左。水路の下を通る高速道路。スキポール空港でも滑走路の下には高速道路が通っている。

☆ アントワープに着くと、ノートルダム大聖堂ルーベンス絵画を中心に見学。現地ガイドの引率でイアホンガイトがはなせない、知らない国でのこの人ごみは、イースターホリデーを控えてのバカンスと重なったためとのこと。

 パリの大聖堂が火災で焼け落ちたばかりという事情もあって緊張する。初めてのアントワープノートルダム大聖堂のあと、凸凹な石畳を徒歩で見学。「地震のない」地方の建築様式の主体である組積造が、日本でのこのところの事情から考えると、耐震的には100年遅れているとさえ感じられるが、まったく地震のない国だからか、薄い組積造の壁、小さくなる煉瓦のサイズが目について離れない。ローマの建築に比して、開口部など「まぐさ構造」の安易さが目につく。

 アントワープ大聖堂、市庁舎、王宮ギルドが集まるフルン広場で1時間の自由時間。二人でコーヒーを飲んだあと、警備に当たる警察機動隊にスーパーマーケットのトイレ(0.5ユーロ)を教えて貰ったは良かったが、帰りに道がわからなくなり(ナビなし)集合時間を5分遅刻の大騒ぎだ。
 
 そのあと、我々が乗るベンツのバスはプルージユへ向けてフリーウェイを走る。ベルギーでも特異な街、ダイヤモンドの54面カットを発見したという「ブルジョア」という言葉の語源のまちでもあるプルージユ。住民は「フランスも我々に学んで発展した」と言っている。

 オードリー・ヘプバーン主演の映画「尼僧物語」=父の死後、僧職を捨ててナチに対抗することを決意した当時のベルギー領コンゴで看護師をつとめる尼僧の葛藤を、オードリー・ヘプバーンの主演で描く(ウィキペディア)=の題材となった修道院のある街。その街の構造が一目で体感できる遊覧船に乗って、二重の運河に囲まれる美しいプルージユ市街地区の景観を体感したあと、バスはブラュッセルのホテルへ。

 こちらに来てから、シャワールームだけで疲れがとれなかったが、やっとバスタブにありつくことが出来た。添乗員は、こちらの人はバスタブはシャワーの受け皿だというが、日本人には救いの器だ。翌朝は朝8時からはじまる市内見学に備え早めに寝る。

☆ 4月21日は、愈々最終日の市内観光。明日は一路帰国の途へ、機内の人になる。

 始めに車内観光でブラュッセルの主要地区を回る。その地勢のゆえに、EU本部、欧州議会のあるブラッセル。乗降のためにバスを停められる限られた地点から、まずは広場を目指して、今回のツアーの特徴である「苦難の徒歩」観光が始まる。
   
 まずは、グランプラス広場を取り巻く建築。市庁舎、王の家、ギルドハウス、ブラバン公の舘。金箔で装飾される外観の豪華さは目に止まるが、なぜかその形式に威厳を感じることはない。世界資本主義の揺籃期を象徴する広場だ。昼食のムール貝は、日本人の食感にも近く、今回の旅行では出色の料理だった。食後のフリータイムに細やかながらベルギーチョコレートなどのお土産を買い、時間までに集合場所へ。

 夕食はフリータイムという企画で、新宮から参加された西村ご夫妻と一緒に、先に見た中華料理の店を、地図を片手に探したが見当たらず、別の中華料理店に腰を下ろした。西村氏とは、2日目夕食の折にも新宮のことなど共通の話題で話が弾み、今後展望のある交流の機会となった。ホテルは昨日と同じホテル。着後すぐ風呂に入り明日に備える。

☆ 3日間のオランダ・ベルギーの旅・現地日程を終え、今日は愈々帰国だ。スキポール空港からフランクフルトへは、離陸して高度を上げるや、まもなく着陸態勢に入る。

 4日間とも、これまでの経験上あり得ない快晴だったという。フランクフルトの免税店で重いベルギービールを買い、手荷物のほうが預けたスーツケースより重い。帰りの飛行は往路と違い、水平線の向こうが微かに白む真っ暗な夜間飛行だ。

☆ 今回は、旅の日記を書いてみようと思い立ったが、単に日程を追う記録では意味がないので、印象深かったことに絞ってみた。出来ればこの記述に、訪問した各都市の歴史的経緯や経済的背景なども書き加えたい。今回は準備不足もありスマホのインターネットが使えず情報不足で、不便ではあったが返って街の景観に集中出来たともいえる。
 
 現在飛行機は大きなバイカル湖の上空に指しかかった。午前4時44分だ。名古屋へ一直線に飛行の予定。セントレアの上空は厚い雲で、何も見えない計器飛行。かなり高度も下がり、旋回すると海面に羽根が触れるほどになってやっと視界が開けてきた。着地は揺れも衝撃もない最高の出来だった。ヤンキーなら拍手喝采だ。

☆ 漸く手荷物をとり入国手続きも順調で、添乗員の福多さんや西村さんにお礼して分かれた。エレベータで3階まで上がり駐車場棟BーRFの駐車場へ。

 セントレアからの帰りは難なくいったが、名古屋高速に入るのに苦労した。前に大型車がいて標識が見えない。この手の高速は初めての75歳には無理か。四日市方面に二度も行きかけたが、どうにか一宮への正規なルートに乗りこむ。時差ボケと体調回復のため、帰りは養老SAを手始めにPAごとに仮眠を繰り返し、加賀インター辺りで調子が戻り、8号線に降りて山側道路で到着した。

遊びを通した共感体験と、領域感を育む場の喪失

四年前の秋、「イオンタウン金沢示野」へ孫たちの家族と夕食に出かけた。夕方の六時ごろ、駐車場は超満員の「別世界」で驚いたことがある。

知らなかったのは私だけで、ここは二〇〇六年に開業の、グルメ(一〇店)・ファッション(七店)・雑貨(一五店)・アミューズメントなど(二二店)が集合したショッピングセンター街。国道八号線(北陸高速)と犀川右岸道路の交点付近にあり、JR北陸本線の山側・旧市街に暮らしてきた「旧金沢人」の私には、このクルマ社会の感覚は一種の驚きでした。

 

こうした海側の街並みは、金沢・武家屋敷の街並みを往くと「謡いが空から降ってくる」、いわゆる金沢の風情とはあまりにもかけ離れているのです。

往時の子どもの目線から見ると、まさに遊びの「通り」であった金沢の街。子どもたちは身近な街の隅から隅までを知り尽くしていましたが、今は、何をするにも移動は車中心で、子どもたちの領域感覚は昔のようには研ぎ澄まされません。車移動を前提とした海側の街づくりは、概して大振りな店舗の構えが街の景観となってゆきます。こうした生活環境の実態は、地域空間に対する住民の意識に反映してゆきます。

金沢の文豪・室生犀星が著書『幼年時代』で、少年たちの抱くわが街への領域感にふれていますが(「ガリマ」隊のこと)、私たちの年代もそんな街に育ったので、「通り」という言葉からうけとるイメージは今の子供たちとは大いに違うのです。――金沢の街の通りには「ガリマ隊」が出没していました。彼らにとって公共空間は〝われわれの領域〟という感覚なのです。

少年達は通りに迫り出す枝の果実を「収穫」する(金沢の城下であった家々では庭に実のなる樹々が好んで植栽されていた)。少年達は一人では出来なくても隊を組むや、通りという「公共空間」は直ちに自分達の「縄張り」と化する…怒鳴り声を上げている庭のオヤジは隊にとって寸時は敵となるのであるが、こんな場合は素早く逃げるが勝ちであると知っている――とあります。

こうした例にも見られるように、わが国では公共空間に対する領域感覚は永い時間をかけて形成されてきましたが、一九六〇年代からの急激な「経済成長」は都市の膨張とクルマ社会への変容を迫り、公共交通の確立されない地方都市から、都市居住に不可欠な子どもたちの遊び空間を奪う結果となりました。

子どもの発達に直接関わる住まいの近傍と「領域感」を考えるうえで、「ガリマ隊」は(大正時代の著作であるが)、現代都市が失ってきた=街の生活感=を示す好例です。

孫と遊んでいると、子どもの成長に眼を見張る。人間の脳の発達は三歳までに八〇%六歳までに八五%一〇歳までに九〇%と聞くと(「公共空間と領域感」の喪失・二〇一四年拙著)住まいや地域環境がいかに大切であるか改めて考えるのです。

特にわが国では、「通り」機能の多様性は重大な意味をもっていましたが、通行機能以外の多様性を失う過程で、生活環境の質が急速に低下することとなりました。

ここに一九七〇年代の通りの風景を綴ったエッセイがありますので紹介します。

『ある交差点』

 ある交差点/おもちゃの車に乗って無心に遊ぶ三~四才の男の子/激しく車の行き交う横断歩道/対岸めざして愛車を操ってゆく/とても黙ってみるに堪えないが彼にはここが天下のようだ/事の恐ろしさを知っている親は「道路で遊んじゃダメよ!」と教えるが/「外へ行って遊びなさい!」と言われて育った親たちは/自らのことばの裏に移りゆく都市の姿を感じてきた/それでも子ども達には当然のこととして教えるのだ/「飛び出すな!車は急に止まれない」/交通標語にあったが今ではまちの細道までもそれが常識となって/そんな標語はいらない/「飛び出すな!子どもは急に止まれない」との想いを結果として捨て去り/そのかわり飛び出さない子どもが多くなっていはしまいか/そのうえ、とりわけ金沢の生活街路は/採光・通風はもとより社会生活には不可欠の共有領域であったが/今では騒音減となった/変化に生活を順応させるために/通りに開いていた家々の構えは閉じた形態に改められた/道はおろかつい三〇年前には自然な風景であった/寺の境内や川の浅瀬から子ども達の遊び声は消え/学校ではいじめが横行している/都市生活者の共有領域がその実態を失うとき/それらを空間的基盤としている相隣関係は次第に疲弊してゆくことだろう。 〔朝日新聞地方版紙面批評=九三年一〇月・原稿=から〕

こうして、居住地における相隣関係の中でも、とりわけ「通り」の持っていた遊び空間としての多様性の崩壊が、子どもたちの遊びを通した共感体験・領域感を育む場を喪失させてしまったのです。(こ)

居住地区は『生活の空間』―子どもたちに遊びの場を―

◇わがまち探訪◇ 居住地区は『生活の空間』―子どもたちに遊びの場を― 永山孝一

 

かつて街の「通り」は余程の大通りでない限り縁台を出しての夕涼みや、子どもたちは独楽をまわし竹馬に乗ったりで、通行専用ではなく日常の生活に不可欠な「多目的」な屋外空間だったが、昭和三〇年代のある日から、それは変わった。

「顔見知り度」の高い街へ

元来、町屋の「通り」は多面的な日常生活のための空間であったが、いわゆるマイカーの登場は事情を一変させたのであった。物理的にも心理的にも危険を排除しやすい町屋の「通り」。その失われた機能の回復は、疲弊してゆく相隣関係の再生にとっても有効であると思われる。

住戸近傍に子供の遊び場を――道・空間を「通行」から「生活」の空間へ機能を回復。景観・衛生・安全、地域とのインターフェイスとして地区の駐車システムを工夫し、外遊びを活発に。   

「住民自治」の前進が大切――地域に住む人が主体になって、歴史的・空間的にわが街のあり様を考えること。国民・市民でなく住民住んでいる人=にとって住みよい街へ。

「遊べるまち」は危険を排除する――物理的な危険排除の仕組=建築・都市的営みと、向こう三軒両隣が顔見知りになる。即ち「顔見知り度」を高めるまちづくりを回復してゆくことが大切だ。

「遊び」=子どもの育ち―― 子どもは遊びの中でだけ大人に管理されず命令されず、本当に自主的な自分の人生の主人公になれる」(『豊かさへもう一つの道』暉峻淑子より)

 「わがまち探訪」のテーマを考えると、以前からの私の主題でもある日本における「都市居住」中でも「子どもの遊び」が中心になるのです。子どもの遊びがあすの日本の行く手を左右する、と言っても過言でないかもしれません。『交流誌』季刊「コスモス」へひとつの提言です。

 

  

―『忙中閑』よりー ガリマ隊」 〔二〇一一年五月号〕

 

「公共空間と領域感」を考えるうえで、室生犀星の『幼年時代』に描かれている「ガリマ隊」は、大正時代の著作とはいえ、街の生活感を示す好例だ。――少年達は通りに迫り出す枝の果実を「収穫」する。(金沢の城下であった家々では庭に実のなる樹々が好んで植栽されていた)少年達は一人では出来なくても隊を組むや、通りという「公共空間」は直ちに自分達の「縄張り」と化する。――怒鳴り声を上げている庭のオヤジは隊にとって寸時は敵となるのであるが、こんな場合は素早く逃げるが勝ちであると知っている。

暉峻淑子氏はその著書『豊かさへ もうひとつの道』で「子どもは遊びの中でだけ大人に管理されず、命令されず、本当に自主的な自分の人生の主人公になれるからです。そして、自主的であればこそ自分の能力を精いっぱい発揮する喜びを知ります」と述べている。(傍点――筆者)

金沢ばかりか日本のまちが私たちに語りかけるように――半世紀の都市変容で失ったものに住居集合のあり方に深く関わる「公共空間と領域感」の喪失があると感じている。

 

註:「忙中間」は『建築とまちづくり』誌の巻頭エッセイ(二〇一一年四月号~三月号まで担当)

志位さんの記者会見を読んで

 

 志位さんの記者会見のニュース(9月6日朝日)を読んだ。全く同感の内容だった。

朝日の記事では、「…気候変動、地震の両面で、政治が知恵と力を尽くしていくことが党派の違いこえて必要な時期に来ている」と結んでいた。

            *            *

 今にも西の方から「ミサイルが飛んでくる」という想定で、「地震で北海道が停電した」という目の前の現実を打ち消すことはできない。まして、この北海道地震の前日まで、日本列島は南から北までかつてない災禍を振りまいた台風21号に怯えていた矢先であった。

 予ねて私は、国土建設、地域政策、街づくりのなど、国民生活と文化の在り方について基本的な問題があると考え、いくつかの提言もしてきたが、昨今のように、激甚な災禍が連続して降りかかるたびに、メディアを通じてそれなりに世論が喚起されてきたことは知っている。

 しかし例えば、非核・平和の日本、原発再稼働の停止、地球環境から地域の在り方に至るまで、日本国民がこれから避けて通ることの出来ない平和と民主主義の危機について、政治の在り方を問う国民的なレベルでの政策論争がなされた、という記憶はなかった。

 もちろん、公害問題などで、国民の生命財産が直接問われる事態に迫られ、一定の前進をしてきた実績もあり、こうした経験を今後に生かしてゆくことは大切だと思う。

 

 

 

共産党志位和夫委員長(発言録)

 

 日本が防災面で抜本的な対応をやらなければいけない非常に重大な時期に来ている。一つは異常気象。今年は豪雨災害、台風災害が相次ぎ、非常に深刻な被害が出た。災害級と言われた猛暑の問題もいろんな被害が出ている。

 明らかに地球環境の異変、気候変動が根っこに働き、一連の災害が起きている。これまでの延長線上ではない、一連の対策が求められると強く感じている。

 地震という点でも日本列島が非常に不安定な状況に入りつつある。気候変動地震の両面で、政治が知恵と力を尽くしていくことが、党派の違いを超えて必要な時期に来ている。(6日、記者会見で)

地域の生活空間と子供の遊び場

                                         

                    ――特に、日常の生活領域において何が大切かを考えてみる――

 

「顔見知り度」の高い街へと転換

               心理的な危険が排除されやすい「通り」機能の回復を重視――元来、「通り」

               は多面  的な生活行動の場であった。

地域を「住みよく」つくり変える 

               住民自治の前進――わが街を(歴史的・空間的に)考える。――国民・市民で

               なく住民=住んでいる人=が住みよい街。

「遊び」に見合う子どもの「育ち」

              「子どもは遊びの中でだけ大人に管理されず命令されず、本当に自主的な自分                 の人生の主人公になれる」。(暉峻淑子)

「遊べる街」から危険は排除される

                物理的な危険排除の仕組み・構造=建築・都市的な営み。向こう3軒両隣が

                知り合うこと。→「顔見知り度」を高める。

住戸の近傍が子供の遊び場となる 

    「道」空間を通行専用から生活(遊び)空間へ機能回復。不急な車の通行を

    抑制・排除し、→ 駐車方式を再検討する。

住まいと地域のインターフェイス 

    不要となった駐車空間の積極的な活用で、外遊びを活発に。花火、けん玉、こ

    ま回し、スケート、縄跳び、夕涼み……

                                (永山孝一)