『金沢のまちづくりはどうあるべきか』

 『城下町金沢』など遺作の多い田中喜男先生(経済学博士)も『金沢のまちづくりはどうあるべきか』(転載)で――「当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない」――と述べられるように、私たちは「農村が都市を育ててきた」ことの意味を確認することが大切だと思いました。(2017年03月16日)

 

―田中喜男先生を偲んで― 田中喜男先生とお別れ(2009年6月)して5年余となるが、「金沢のまちづくり」を考える上で、歴史都市金沢を深く愛された先生のお話から学ぶことは大切であると考え、追悼エッセイから転載しました。

はじめに

 まちづくり研究会準備会(1991年・金沢)で、田中喜男先生のお話を伺う機会がありました。開会に先立って先生は、「以前、五井先生からも、金沢のこれからのあり方を考える上で、歴史的な観点からのご質問がありました」と話されました。そのときは気が付きませんでしたが、研究会の若い人たちに、先生がその頃取り組んでおられたこと(註1)の一端をお話されたんだなぁー、ということが20年後の今になって思い出されます。

思えば一昨年、先生をお見舞いに伺った城北病院で、『いしかわ住民と自治』の最新刊をお渡しすると「この若草色のいしかわ自治研の封筒と朝日新聞を毎日待っているのですよ」と、付き添われている奥さんが通訳してくれました。

金沢のまちづくりはどうあるべきか

 「最近いろんな会合に出るのは老害と言われるといけないので遠慮していたが今日はどうしてもお断りできなくてお伺いした。今日の主題は都市と農村の関わりを抜きにしては語れないテーマであると思う」お話の冒頭のお言葉でした。以下要約します。

                 *
 歴史的に見ると、農村がいつのまにか町になって行くという流れがあるが、昭和三〇年ごろから今日まで、われわれは古いものを戸室山に捨ててきた。また、都市には人が住んでいなければならないが、行政は外側=形態ばかり気にしているようだ。
 私は経済史を研究しているが、最近経済から見た思想に関心がある。スミス、マルクスケインズと経済思想が入ってきたが、いずれもうまくいっていない。ところで、われわれが近代になってから切り捨ててきた江戸の経済学者の中に素晴らしい人が出ていたことが明らかになった。当時の人たちが都市と農村をどう考えていたのかを今こそ振り返らなくてはいけない。歴史には連続するものと非連続のものとがあるが、日本人は西洋から入ってきたものを無批判に受け入れた結果、明治以降都市における歴史的な連続性は断たれた。

 全国どこにもある都市の生成過程(註2)だが、漂泊(さすらい)の人々は税のかからない河原(川が氾濫して流れていってしまうから)に住みついた。金沢でも今の109の下から犀川大橋までの間に(その途中に中州があったがそこに架かっていた橋を「小橋」とした。小橋神社の氏子は漂泊の人々であった。)「まち」が形成された。片町は漂泊の民の町であったが藩の区画整理により追い出されてしまった。河原町、河原ヨコ・タテ町などは全国どこにもある。

 一方、旧金大の二の丸御殿、極楽橋から本丸あたり、今のテニスコート(現在「いもり掘」へ工事中)を見下ろすところが金沢御坊で、その下に寺内町があった。これが金沢の最初のものと思っていたが、もうひとつ河原町という都市の核があった。やがて前田氏が入城して街並みができ、さらに区画整理が行われ、河原の住人は追い出されていった。河原の中の人を荼毘するところに寺町(今の寺町とは違う)があったが、元和元年(1615年)の区画整理で無縁の人々の寺町は移動された。

 藩政は年貢のために農村に対して権力を行使したが、町民に対しては手をこまねいていた。町民からは税が入ればよかったので町の土地所有には関心がなかった。都市でも農村でも土地所有があった。江戸では、検地で定着した土地所有権を質に入れる者がいたという。その権利を質流れさせないようにとの行政の手立てもあったが、近代になって権力は土地所有に細かい規定を設けた。当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない。

 では、行政は都市をどう考えているのだろうか。建物や古い街並みだけを保護しているが、中味の生活こそ大切だと思う。百万石文化というがそれは一体何か、誰もわからない。例えば、尾張町と竪町のお雑煮が違うように生活文化が家をつくっている。金沢の建物に網をかければまちが良くなるというものではなく、住んでいる人の納得でじっくり話し合っていかなくてはいけない。また、今日では、都市の人が農村を支えることも大切だ。

 都市を考えるとき、その物的な環境と住んでいる人の生活をワンパックで考えなくてはいけない。例えば、金沢の町人は自分達のまちの祭礼には大きなエネルギーを注いできた。祭礼には人々の思いがこもっている。お宮さんのありかたを考え、新しい祭礼を興さねばならないと思う。

                (要約=永山孝一 金沢建築とまちづくり研究所)

                  *
 註1 『地方官僚と儒者の経済思想』(田中喜男著 日本経済評論社)
 註2 『都市の蓋然化と個別化』(田中喜男著 まちづくり研究会会報創刊号6頁)

                                                     

萌えいづる春

前略  萌えいづる春 なにかとご多用のことお見舞い申し上げます。

西国巡礼とかで、妻が友人と一緒に出かけてしまい勉強するしかなく、骨休めにこんな近況報告も如何かと思いつつ筆をとりました。

実は、いま読んでいる「シリーズ日本近世史①~⑤」(岩波書店)の『天下泰平の時代』③(高埜利彦・著)に、徳川吉宗政権の「江戸のゴミ問題」に取り組む風景などが描かれ、=第5章「構造改革」に挑む=都市生活の(ある意味)原点とも言えるこの問題は、金沢にとっても他人事ではないと思いまして、該当ページ「第3節 制度の充実」写真(添付)をお送りする次第です。

文中、「生産力の上昇を前提にして社会は変容した。浮遊労働力が都市や町やその周辺に存在し、これを編成する町人が仕事を請け負い、幕府や大名がこれを利用する形がとられ出した」と、生産力の発展と生産様式の変化=制度の充実=にも触れています。

 また、わが国では「京と江戸」はなにかにつけ語り草ですが、半世紀遅れの北陸新幹線で、「北の都」も注目されています。近くは、金沢市庁舎の「空中歩廊」を市民が拒否した背景にも、歴史都市への市民の思い入れがあると思います。

『城下町金沢』など遺作の多い田中喜男先生(経済学博士)も『金沢のまちづくりはどうあるべきか』(添付)で―― 「藩政は年貢のために農村に対して権力を行使したが、町民に対しては手をこまねいていた。町民からは税が入ればよかったので町の土地所有には関心がなかった。都市でも農村でも土地所有があった。江戸では、検地で定着した土地所有権を質に入れる者がいたという。その権利を質流れさせないようにとの行政の手立てもあったが、近代になって権力は土地所有に細かい規定を設けた。当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない」――と述べられるように、私たちは「農村が都市を育ててきた」ことの意味を確認することが大切だと思いました。

                                                                                                                                            草々  

                                                                                                     2019年3月15日 永山孝一

 

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「傷つきやすい心」を忘れた科学者の慢心

編集

『非核・いしかわ』花鳥風月より

 その頃は、うたごえ運動も盛んで「みたび許すまじ原爆を/われらの街に…」とよく歌った▼そして、私には今も忘れないもう一つの言葉がある。45年前、金沢で開催した建築講演会の質疑応答で、敬愛する山本学治先生(東京芸大教授・建築学)の「傷つきやすい心を持ち続けることが大切」は、原発の建設準備に携わっているという青年技術者の質問=悩みへのアドバイスだった▼いま、米・原発事業の「隠れ損失」という地雷に遭遇した東芝が、まさに崩壊の瀬戸際にあるが、それでも近く、トランプ大統領との会談を控えた安倍首相は、原発輸出を成長戦略のかなめに置いている▼日本学術会議は4日都内で「大学などの研究機関に対する防衛省の資金提供制度を考える学術フォーラムを開き、約280人が参加。議論では軍事研究に反対する意見が大多数を占めました」「哲学のない科学技術は凶器になる」(赤旗)とあるが▼「歌を忘れたカナリア」のように、「傷つきやすい心」を忘れた科学者の慢心―凡そ人類の科学とは相容れない「反科学」―の横行は、いよいよ見過ごすことが許されなくなってくる。

 

資料① 原爆を許すまじ

ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に

ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に

ふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に

はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
世界の上に

 

資料② 歌を忘れたカナリア

 《 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか

いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリア象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す》

童謡「かなりあ」(詩・西条八十)です。童謡は大正時代に、鈴木三重吉北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための歌なのです。
西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。教会内に華やかにともされていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていました。
幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげにさえずっている中に、ただ一羽だけ鳴くのを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」のです。
子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのです。唄を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌い出すのです。 
このカナリアは、作者の西条八十自身であり、創作活動に行き詰まりを感じていた当時の心境を歌詞にしたとも言われています。
「唄を忘れたカナリア」になった彼は、詩を捨てたほうがいいのだろうか、それとも無理にでも詩を作ったほうがいいのだろうかと悩みます。

世界には、まだまだ詩となるべき美しいものが満ちているはずであり、自分はそれに気が付いていないだけだ。それを見つけることができたなら、忘れていた詩を作れるようになるという思いを込めて、この童謡を作ったのです。(Yahoo知恵袋

市民に愛される街には 素敵な公共交通が必要

 

〝輪島の公道で電動カート自動走行〟の記事(朝日)を見て、若者に愛されるキューバの〝まち馬車〟を思いだしました。市民に愛される街には 素敵な公共交通が必要ですね!

 

石川)輪島の公道で電動カート自動走行 記者も試乗体験

――板倉吉延 2016年11月16日03時00分 (朝日新聞より紹介)

公道での自動走行実験に出発する電動カート=輪島市河井町

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 輪島商工会議所が15日に輪島市内の公道で始めた電動カートの自動走行実験。観光施設「輪島工房長屋」(河井町)で出発式があり、市内の観光地をめぐる運行が始まった。記者も試乗し、約1キロの周回コースを体験した。

 

 

若者たちの〝街馬車〟(サンチャゴ・デ・クーバ=キューバ

――永山孝一2012年5月 「キューバ紀行」より紹介

  「電動カートの自動走行実験」(朝日新聞のニュース2016年11月)を読んで思い出した。

    2012年5月『カリブ海の真珠』=「貧しいけれど豊かな国キューバ紀行」で報告した、若者たちに愛されるわが街の交通機関〝まち馬車〟の転載です。市民に愛される街には、素敵な公共交通が必要!

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固有性の発揚こそ地域発展の要

    エメラルドグリーンとマリンブルーの海、パウダースノーの真っ白なビーチ。初めての宮古島の大景観見とれ久方振りの日焼けに遭ってしまった。沖縄本島からは南西に300㎞。面積204平方㎞の三角形の島人口5500人の大部分は港ある平良地区に集中している。東に平安名が太平洋に突き出し、北に池間島と 西平安名、南に与那覇前浜と来間島、西に伊良部・下地島渡る伊良部大橋の大景観など見ものだ。

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    日本一のドライブスポットの売り込みで昨年の1月開通したばかりの伊良部大橋(全長3540mで通行料金なし)を渡る。佐良浜港にレンタカーを停め、エー ジェント企画によるボランティアガイドの案内で、傾斜地に建つ佐良浜の街並と漁師の住まいを訪ねた。御嶽信仰や水を尊ぶ習慣、自然の猛威と住民の結束、地区成立の歴史やカツオ一本釣り漁、ソロモン諸島まで出掛ける南方漁業のことなど、楽しくお聞きすることが出来た。

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    羽田空港からの直行便も3月から就航し、島は観光受け入れ施設の建設で盛り上がっている。平坦な島で本土のような清流はないが、飲料水は琉球石灰岩層の豊富な井戸水を利用している。金沢も南は有松貴船神社から、北は鳴滝神社での弁慶の話のように、街づくりの根幹には「水」がある(註)。良浜の密集した街を歩くと、米軍戦闘機が落とした燃料タンクを天水桶に利用していた。人の住むところ形は違っても共通の原理平和と安全を願うの大切さを教えられる旅だった。                       

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 金沢・北国街道北端の大樋町には鳴滝神社弁慶が滝の水を汲んで飲み「鳴るは滝の水」と詠ったというが、南端の有松には貴船神社〔京都鞍馬に総本社。祭神は水の神様〕があり水を尊んだ往時のまちづくりが偲ばれ。(木構造文化と町家・町屋―金沢」)

 

 

問われる都市の品格


www.chunichi.co.jp


都市の品格

―「上空通路」が論議される金沢市に想う―

 

  ♪二つの流れ遠長く 霊沢澄んで涌く所

    甍の数の日に添ひて 自らなる大都会

http://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/3639/1/sika.pdf

 

小さい頃から親に聞かされてきた。「二つの流れ」に畏敬の念を抱くのは金沢に育った人たちに共通の心情。こうした感性が、「都市の品格」の源をなしてきたのではないだろうか。

川も用水も金沢にとってはかけがえのない貴重な資産だ。いたずらに蓋をしたり跨いだりしては罰が当たると教えられてきた。

もし、「上空通路」が金沢市議会で推奨されるようであれば、第2第3の「上空通路」が新たな「装い」で企画・立案され、そのうちそれが常識となって、ついには下司な街へとつながってゆきはしないか?(2016年11月8日 永山孝一)

都市の個性こそ金沢の未来

わが国が「新幹線時代」と言われた1964年からすでに半世紀が過ぎ去った。そして、今、ようやく金沢にもその「新」時代がやってきたのである。2015年春から、街の中心部に(限れば)観光客は増え、兼六園などではかつての高度成長期のように入場者が毎日1万人を超えるという。旅行者の話し言葉からも外国人の多さに改めて驚く。

遠来の旅行者は、観光を求めて金沢を訪れるのであり、言葉を替えれば「街の個性」を体感することが目的であろう。であれば、それを迎える方の礼儀としては、何ものにも代え難い金沢の「街の文化」を実感できるよう心掛けるべきことは言を俟たない。その金沢も、失われた20年の閉塞で、中心市街地の空洞化の止まることなき状況を目にする時、「都市の個性」とはなにかが改めて問われているのである。

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「高度成長」期から地方都市の生活圏が、周辺市町を含む郊外地域へ拡大される一方、市民の生活交通は、市電撤去を含めいよいよ私的自動車交通への依存=移動の「自己責任」化=を強め、今日では、日常生活における移動にも事欠く「移動困難者」が増大し、生活交通の困難が際立ってきている。とりわけ金沢の郊外地域の人口(2012年住民基本台帳から)は、山側16万人海側18万人で、計34万人(77%)を占め、公共交通の脆弱さは目を覆うばかりだ。また、かつては中心的な居住・商業地区であった旧市域の中心市街地でも10万人(23%)で空洞化は進行し、都心の「限界集落」「消滅集落」化が囁かれるなど都市生活は不自由、破綻の様相を呈している。

 このような中で今、金沢市では、市議会庁舎を西外総構掘の外側へ移転して、行政庁舎との長い連絡通路で総構掘を跨いで繋ぐ計画が進んでいると聞いて耳を疑った。いまなぜ連絡通路なのか。やたらと「空中歩廊」や「地下通路」を造らず、地上を歩いて行き来すればよいのである。むしろ、空中歩廊を求める発想の背景には、人の行き来し難い地表の現実にこそあるのではないか。そして、実はその地表の「行き来し難さ」こそ、「公共」が解決すべき地方都市の現実なのではないか?

市民はもとより、旅行者からも愛される金沢をイメージするほどに、『都市格』を傷つけるような計画は思い止まってほしいと願わずにはおられない。

(2016年10月18日 永山孝一)