〝それでも地球は動く〟

 金沢・革新懇の事務局から依頼がありましたので、先日、発行された 『非核・いしかわ』6月号〝編集室から〟の拙稿に加筆してご紹介します。

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 ガリレオ・ガリレイのつぶやき〝それでも地球は動く〟(宗教裁判『異端審問』)は子どもたちも知っている。

 それと同時代の〝われ思う、故に我あり〟は、ルネ・デカルト(1596~1650年)が『方法序説』の中で提唱した命題で、科学的な考え方の基礎となっている。

 私たちも、戦後教育の中学教科書で学んだ『われとわれら』(『展望』)。その中で著者・谷川徹三は――それまで人は『われら』でしかなかったが、それ以後は『われ』であることが出来た――と述べている。

 いま『共謀罪』立法で、この『われ思う』=『内心の自由』に踏み入るならば、15年戦争に日本国民を追い込んだ治安維持法(1941年)ばかりか、『異端審問』(1633年)をも連想させることになると思う。

          

人口予測と住宅需要

人口予測と住宅需要――2030年には人口が8000万人(高齢化率39.9%)と推計されています(「国立社会保障・人口問題研究所」)。従って15年後には、現在の800万戸の空き家が2100万戸を超え、3戸に1戸が空き家となることが予測され、新しい住宅建設への需要は激減すると思われます。

 それでなくとも大企業の内部留保は増大する反面、庶民の預貯金は激減しているなか新しい家を建てる意欲は減退し、古い家を改修利用する傾向は強まります。現に、周りを見回したところ、多くの若者は素敵な車があっても買えず、スマホ止まりとなっているのです。(2017年6月12日)=続く=

 

『亡国招来』法案

 参院法務委の「共謀罪」法案についての参考人質疑(6月1日)での松宮孝明立命館大学教授の陳述によれば、「…広く市民の内心が捜査と処罰の対象となり、市民生活の自由と安全が危機にさらされる戦後最悪の治安立法となるだけでなく、実務にも混乱をもたらします。」とあります。

 これが現実となると誠に恐ろしい事態です。――思えば今は亡き大正生まれの母が、私が大きな声を上げると必ず口に手を当てて制止したことを思い出します。要は、何事につけても、本音を語れない世の中になるということです。本音を失うということは、人々は生きるために虚言だけが横行する世界を招来することになり、つまるところ亡国に向かうことになります。であれば、いま国会で「審議」されているという「共謀罪」法案の本質は「亡国招来」法案であるといえます。=続く=

 

 

市民メディアの構築を

  全国の自治体における憲法を守る闘いで、市民メディアの構築が不可欠である。いま、改憲勢力は『壊憲』を狙う態勢を強めている。市民社会に、目・耳・口の 閉ざされた『暗黒』=監視社会=の再現は許されない。地域において、市民の立場に立つメディアの構築こそ、わが国と地域の明日を切り拓く現実的な力となる。 

平成 浅野川氾濫

それは、昭和28年・浅野川氾濫

 古来「治水」は住民の営みである(註1)。思えば少年時代の私にとって、昭和28年の浅野川氾濫はその第1幕だった。「浅野川大橋をのぞき全橋が流失」(『石川の土木建築史』)(註2)。――上流からは崩壊した木造の橋や大木が次々と流れてくる。少年はその現場に居た。

  その頃瓢箪町小学校に通っていた私は、中島大橋の左岸で息を呑んで成り行きを注視する地区住民に混じり、恰も舟のように川の真ん中を流れる木造の仮橋が、中央の橋脚に激突するのを見ていた。木造土橋だった中島大橋はひとたまりもなく崩壊するや、下流にある北陸本線の橋脚に塞がり流れを堰き止めて、地域一帯は見る間に大洪水に見舞われた。

 

そして、平成20浅野川氾濫

 そこには、住民の「治水」を忘れたかのような状景が連続していた。第2幕・平成20年の「浅野川氾濫」。――「かさ上げ堤防の管理不手際だと?」、「浅野川放水路による犀川への分流に失敗した?」、そのうえ「上流で砂防の決壊とは思わぬところで治水システムが破綻してしまったではないか!」。

 ここには山川を治められない街・金沢があった。「ダム建設」・「新幹線」。大きな事業に目を奪われ、病んだまちづくりに自然が反逆。流域の住民はあふれる泥水に怯え、途方にくれている。

                                                  (永山孝一 平成20年・日記から)

参考資料

1  『天下泰平の時代』=「シリーズ日本近世史③」高埜利彦著(岩波新書)157頁より転載。

 享保5年に、吉宗政権はいわゆる国役普請令を発した。河川の土木工事(普請)は江戸時代の前半期には、領主が農民を夫役(年貢とともに義務)として徴発し、普請人足に用いて行った。今回の国役普請令では、河川工事を町人に請け負わせ、その町人が人夫を集めて工事を実施し、その費用を国役金で周辺農民に負担させる方式である。

 たとえば利根川の普請を行う場合、費用の九割を武蔵・下総・常陸・上野・安房・上総六か国の農民に、国役として負担させ、一割を幕府が負担した。利根川流域の村々が領主単位で普請を行おうとしても一部に止まり、河川全体に及ばない。そこで、幕領・私領を問わず広範囲の河川普請を町人に請け負わせ、国役金で賄う方式を実施させたものである。ただし、一国一円を支配する国持大名や二十万石以上の大名はこれまで通り自普請とする。と命じている。この国役普請制度は、以後も恒常的に施行された制度である。請け負った町人が、編成できる労働力の存在が前提となって可能な制度である。つまりは、農業から離れた浮遊労働力の一定の集積が想定される。

2  昭和28年8月24日 浅野川に大被害:浅野川大橋をのぞき全橋流失。死者1、行方不明3、家全壊1、半壊16、床上浸水4,029。(『石川の土木建築史』石川県土木部)

『金沢のまちづくりはどうあるべきか』

 『城下町金沢』など遺作の多い田中喜男先生(経済学博士)も『金沢のまちづくりはどうあるべきか』(転載)で――「当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない」――と述べられるように、私たちは「農村が都市を育ててきた」ことの意味を確認することが大切だと思いました。(2017年03月16日)

 

―田中喜男先生を偲んで― 田中喜男先生とお別れ(2009年6月)して5年余となるが、「金沢のまちづくり」を考える上で、歴史都市金沢を深く愛された先生のお話から学ぶことは大切であると考え、追悼エッセイから転載しました。

はじめに

 まちづくり研究会準備会(1991年・金沢)で、田中喜男先生のお話を伺う機会がありました。開会に先立って先生は、「以前、五井先生からも、金沢のこれからのあり方を考える上で、歴史的な観点からのご質問がありました」と話されました。そのときは気が付きませんでしたが、研究会の若い人たちに、先生がその頃取り組んでおられたこと(註1)の一端をお話されたんだなぁー、ということが20年後の今になって思い出されます。

思えば一昨年、先生をお見舞いに伺った城北病院で、『いしかわ住民と自治』の最新刊をお渡しすると「この若草色のいしかわ自治研の封筒と朝日新聞を毎日待っているのですよ」と、付き添われている奥さんが通訳してくれました。

金沢のまちづくりはどうあるべきか

 「最近いろんな会合に出るのは老害と言われるといけないので遠慮していたが今日はどうしてもお断りできなくてお伺いした。今日の主題は都市と農村の関わりを抜きにしては語れないテーマであると思う」お話の冒頭のお言葉でした。以下要約します。

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 歴史的に見ると、農村がいつのまにか町になって行くという流れがあるが、昭和三〇年ごろから今日まで、われわれは古いものを戸室山に捨ててきた。また、都市には人が住んでいなければならないが、行政は外側=形態ばかり気にしているようだ。
 私は経済史を研究しているが、最近経済から見た思想に関心がある。スミス、マルクスケインズと経済思想が入ってきたが、いずれもうまくいっていない。ところで、われわれが近代になってから切り捨ててきた江戸の経済学者の中に素晴らしい人が出ていたことが明らかになった。当時の人たちが都市と農村をどう考えていたのかを今こそ振り返らなくてはいけない。歴史には連続するものと非連続のものとがあるが、日本人は西洋から入ってきたものを無批判に受け入れた結果、明治以降都市における歴史的な連続性は断たれた。

 全国どこにもある都市の生成過程(註2)だが、漂泊(さすらい)の人々は税のかからない河原(川が氾濫して流れていってしまうから)に住みついた。金沢でも今の109の下から犀川大橋までの間に(その途中に中州があったがそこに架かっていた橋を「小橋」とした。小橋神社の氏子は漂泊の人々であった。)「まち」が形成された。片町は漂泊の民の町であったが藩の区画整理により追い出されてしまった。河原町、河原ヨコ・タテ町などは全国どこにもある。

 一方、旧金大の二の丸御殿、極楽橋から本丸あたり、今のテニスコート(現在「いもり掘」へ工事中)を見下ろすところが金沢御坊で、その下に寺内町があった。これが金沢の最初のものと思っていたが、もうひとつ河原町という都市の核があった。やがて前田氏が入城して街並みができ、さらに区画整理が行われ、河原の住人は追い出されていった。河原の中の人を荼毘するところに寺町(今の寺町とは違う)があったが、元和元年(1615年)の区画整理で無縁の人々の寺町は移動された。

 藩政は年貢のために農村に対して権力を行使したが、町民に対しては手をこまねいていた。町民からは税が入ればよかったので町の土地所有には関心がなかった。都市でも農村でも土地所有があった。江戸では、検地で定着した土地所有権を質に入れる者がいたという。その権利を質流れさせないようにとの行政の手立てもあったが、近代になって権力は土地所有に細かい規定を設けた。当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない。

 では、行政は都市をどう考えているのだろうか。建物や古い街並みだけを保護しているが、中味の生活こそ大切だと思う。百万石文化というがそれは一体何か、誰もわからない。例えば、尾張町と竪町のお雑煮が違うように生活文化が家をつくっている。金沢の建物に網をかければまちが良くなるというものではなく、住んでいる人の納得でじっくり話し合っていかなくてはいけない。また、今日では、都市の人が農村を支えることも大切だ。

 都市を考えるとき、その物的な環境と住んでいる人の生活をワンパックで考えなくてはいけない。例えば、金沢の町人は自分達のまちの祭礼には大きなエネルギーを注いできた。祭礼には人々の思いがこもっている。お宮さんのありかたを考え、新しい祭礼を興さねばならないと思う。 (要約=永山孝一 金沢建築とまちづくり研究所)

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 註1 『地方官僚と儒者の経済思想』(田中喜男著 日本経済評論社)
 註2 『都市の蓋然化と個別化』(田中喜男著 まちづくり研究会会報創刊号6頁)

                                                     

萌えいづる春

前略  萌えいづる春 なにかとご多用のことお見舞い申し上げます。

西国巡礼とかで、妻が友人と一緒に出かけてしまい勉強するしかなく、骨休めにこんな近況報告も如何かと思いつつ筆をとりました。

実は、いま読んでいる「シリーズ日本近世史①~⑤」(岩波書店)の『天下泰平の時代』③(高埜利彦・著)に、徳川吉宗政権の「江戸のゴミ問題」に取り組む風景などが描かれ、=第5章「構造改革」に挑む=都市生活の(ある意味)原点とも言えるこの問題は、金沢にとっても他人事ではないと思いまして、該当ページ「第3節 制度の充実」写真(添付)をお送りする次第です。

文中、「生産力の上昇を前提にして社会は変容した。浮遊労働力が都市や町やその周辺に存在し、これを編成する町人が仕事を請け負い、幕府や大名がこれを利用する形がとられ出した」と、生産力の発展と生産様式の変化=制度の充実=にも触れています。

 また、わが国では「京と江戸」はなにかにつけ語り草ですが、半世紀遅れの北陸新幹線で、「北の都」も注目されています。近くは、金沢市庁舎の「空中歩廊」を市民が拒否した背景にも、歴史都市への市民の思い入れがあると思います。

『城下町金沢』など遺作の多い田中喜男先生(経済学博士)も『金沢のまちづくりはどうあるべきか』(添付)で―― 「藩政は年貢のために農村に対して権力を行使したが、町民に対しては手をこまねいていた。町民からは税が入ればよかったので町の土地所有には関心がなかった。都市でも農村でも土地所有があった。江戸では、検地で定着した土地所有権を質に入れる者がいたという。その権利を質流れさせないようにとの行政の手立てもあったが、近代になって権力は土地所有に細かい規定を設けた。当時、江戸は人口130万人(ロンドンも130万人)で、都市と農村の協調型であり金沢も同じである。農村が都市を育ててきたが、その逆ではなかった。このことを確認しなくてはならない」――と述べられるように、私たちは「農村が都市を育ててきた」ことの意味を確認することが大切だと思いました。

                                                                                                                                            草々  

                                                                                                     2019年3月15日 永山孝一

 

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