平成 浅野川氾濫

第1幕 それは、昭和28年・浅野川氾濫

 古来「治水」は住民の営みである(註1)。思えば少年時代の私にとって、昭和28年の浅野川氾濫はその第1幕だった。「浅野川大橋をのぞき全橋が流失」(『石川の土木建築史』)(註2)。――上流からは崩壊した木造の橋や大木が次々と流れてくる。少年はその現場に居た。

  その頃瓢箪町小学校に通っていた私は、中島大橋の左岸で息を呑んで成り行きを注視する地区住民に混じり、恰も舟のように川の真ん中を流れる木造の仮橋が、中央の橋脚に激突するのを見ていた。木造土橋だった中島大橋はひとたまりもなく崩壊するや、下流にある北陸本線の橋脚に塞がり流れを堰き止めて、地域一帯は見る間に大洪水に見舞われた。

 

第2幕 そして、平成20浅野川氾濫

 そこには、住民の「治水」を忘れたかのような状景が連続していた。第2幕・平成20年の「浅野川氾濫」。――「かさ上げ堤防の管理不手際だと?」、「浅野川放水路による犀川への分流に失敗した?」、そのうえ「上流で砂防の決壊とは思わぬところで治水システムが破綻してしまったではないか!」。

 ここには山川を治められない街・金沢があった。「ダム建設」・「新幹線」。大きな事業に目を奪われ、病んだまちづくりに自然が反逆。流域の住民はあふれる泥水に怯え、途方にくれている。

                                                  (永山孝一 平成20年・日記から)

参考資料

1  『天下泰平の時代』=「シリーズ日本近世史③」高埜利彦著(岩波新書)157頁より転載。

 享保5年に、吉宗政権はいわゆる国役普請令を発した。河川の土木工事(普請)は江戸時代の前半期には、領主が農民を夫役(年貢とともに義務)として徴発し、普請人足に用いて行った。今回の国役普請令では、河川工事を町人に請け負わせ、その町人が人夫を集めて工事を実施し、その費用を国役金で周辺農民に負担させる方式である。

 たとえば利根川の普請を行う場合、費用の九割を武蔵・下総・常陸・上野・安房・上総六か国の農民に、国役として負担させ、一割を幕府が負担した。利根川流域の村々が領主単位で普請を行おうとしても一部に止まり、河川全体に及ばない。そこで、幕領・私領を問わず広範囲の河川普請を町人に請け負わせ、国役金で賄う方式を実施させたものである。ただし、一国一円を支配する国持大名や二十万石以上の大名はこれまで通り自普請とする。と命じている。この国役普請制度は、以後も恒常的に施行された制度である。請け負った町人が、編成できる労働力の存在が前提となって可能な制度である。つまりは、農業から離れた浮遊労働力の一定の集積が想定される。

2  昭和28年8月24日 浅野川に大被害:浅野川大橋をのぞき全橋流失。死者1、行方不明3、家全壊1、半壊16、床上浸水4,029。(『石川の土木建築史』石川県土木部)