『豊かさへ もうひとつの道』を読んで

  『豊かさへ もうひとつの道』暉峻淑子・著(かもがわ出版)は、金沢の『資本論』学習会で紹介してもらい、座右において学んで久方ぶりに感銘を受けた著作です。特に印象深かった部分(紙幅の都合でその一部)から抜書きしましたのでご紹介します。

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もうひとつの道があるはず

 けれども経済の自由は人間の自由と同じではありませんでした。経済の自由とは、営利の自由、契約の自由であって、人間が飢えや、病気や、無知から開放されて自由になることではありませんでした。例えば、労働者が、不衛生で危険な労働の改善を求め、生きていけないような低賃金の賃上げを求めて労働組合をつくることは、経済の自由に反するとして、厳しく罰せられました。労働運動のリーダーは死刑にさえなったのです。(一八八頁)

 利益を上げるための競争社会は、目先の成果と効率を上げる強迫神経症の社会を作り出します。仕事のIT化によってノートパソコンを持ち歩き、家に帰ってもメールの送受信、インターネットでの情報収集、ファイル作製などをしなければならない環境が、休息を奪いとってしまいます。過労死した人のパソコン記録を見ると、そのことがはっきりしているのです。人間の歴史は未来に続くものですが、目先の利益に追いまくられていると、五年先のことさえも考えられなくなります。人間社会の将来なんかどうでもよく、自分、自分、自分です。私生活を勤務の中に持ち込むことを厳しく禁じる会社は、その反対に私生活の中に平然と職場の仕事を持ち込ませているのです。(一九一頁)

 ではこの二つの流れの中のどちらが、本来の人間社会なのでしょうか。それはやはり連帯の社会だと私は考えます。なぜなら、人間がこの地上に現れて以来、個々には弱い人間であったにもかかわらず、生き延びてこられたのは、人間が集団として連帯して生きる動物であったからです。技術の伝達も分業も協業も、言葉の発達も、全ては集団としてしか生きられなかった人間生活に由来していました。集団を支えてきたのは、相互に支えあい補い合う、相互扶助の共同領域を維持し続けてきた人間社会の構造にあります。全ての人を人間社会という共同体の中に抱え込んで、ともに生きようとする人間の社会原則です。共同体を破壊して私有財産化した資本主義経済にあっても、この共同部分は社会保障として、発達していきました。(二一四頁)

                              二〇〇九年五月・永山

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 『豊かさへ もうひとつの道』

   暉峻淑子・著(株式会社かもがわ出版)二〇〇八年一一月二八日第一刷発行