わがまち探訪・『藩政期の金沢』から

昨今「地方創生」の掛け声ばかりが聞こえてくる。置き去りにされてきた地域経済と市民生活の窮状が背景にあるからだろうか。そこで、バブル崩壊から三〇年になろうという金沢の中心市街に目をやると、かつての金融街はいよいよ消滅しつつあり、ホテル・マンション街へと転換を模索するかのようだ。

兼六園から東山界隈は、旅行者はかつてより増えているようだが、金沢の真の姿を伝える情報は一体どこへ行ってしまったのか?そこで、「季刊・コスモス」秋季号「わがまち探訪」では、まずは、「藩政期の金沢」市街図を参照して、金沢という地方都市の中心市街の原型から紹介してみたい。

資料・『藩政期の金沢』から

・『京の町家』『金沢の町家』=SD選書で有名な島村昇教授の『住文化史論 Ⅲ』(都市住居篇)』(京大学術出版会二〇〇三年刊二四頁)による『藩政期の金沢』全体図です。―― 水色に塗った川が 〝二つの流れ〟 と謳われる金沢を象徴する川で徳田秋声泉鏡花で知られる浅野川(左)。右の幅の広い川が室生犀星で知られる犀川。図の上が上流です。

・貴重な資料ですが、図の見方は大まかに言って中心がお城、黒く塗った部分が町屋、細かい網目のような区画が武家屋敷などを示し、斜線部が寺院です。

・町屋の黒塗になっている部分の白い線が街道です。街道の端の赤い点は城下の入口と街道の名前です。藩政期の金沢では、町屋が北國街道沿いや金石(宮腰)往還沿いなど、放射状に各方面へ向かう街道の両側に並んでいました。

 ・市街を北から南に通っているのが旧・北国街道。北端の大樋には鳴滝神社、南端の有松には貴船神社があり、水を尊んだ往時のまちづくりが偲ばれます。

 ・金沢は戦火に遭っていませんから、その後の都市計画道路を除き現在も概ねこの図のとおりで、犀川から浅野川まで約二㎞ゆっくり歩いて三〇分です。

 

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