遊びを通した共感体験と、領域感を育む場の喪失

四年前の秋、「イオンタウン金沢示野」へ孫たちの家族と夕食に出かけた。夕方の六時ごろ、駐車場は超満員の「別世界」で驚いたことがある。

知らなかったのは私だけで、ここは二〇〇六年に開業の、グルメ(一〇店)・ファッション(七店)・雑貨(一五店)・アミューズメントなど(二二店)が集合したショッピングセンター街。国道八号線(北陸高速)と犀川右岸道路の交点付近にあり、JR北陸本線の山側・旧市街に暮らしてきた「旧金沢人」の私には、このクルマ社会の感覚は一種の驚きでした。

 

こうした海側の街並みは、金沢・武家屋敷の街並みを往くと「謡いが空から降ってくる」、いわゆる金沢の風情とはあまりにもかけ離れているのです。

往時の子どもの目線から見ると、まさに遊びの「通り」であった金沢の街。子どもたちは身近な街の隅から隅までを知り尽くしていましたが、今は、何をするにも移動は車中心で、子どもたちの領域感覚は昔のようには研ぎ澄まされません。車移動を前提とした海側の街づくりは、概して大振りな店舗の構えが街の景観となってゆきます。こうした生活環境の実態は、地域空間に対する住民の意識に反映してゆきます。

金沢の文豪・室生犀星が著書『幼年時代』で、少年たちの抱くわが街への領域感にふれていますが(「ガリマ」隊のこと)、私たちの年代もそんな街に育ったので、「通り」という言葉からうけとるイメージは今の子供たちとは大いに違うのです。――金沢の街の通りには「ガリマ隊」が出没していました。彼らにとって公共空間は〝われわれの領域〟という感覚なのです。

少年達は通りに迫り出す枝の果実を「収穫」する(金沢の城下であった家々では庭に実のなる樹々が好んで植栽されていた)。少年達は一人では出来なくても隊を組むや、通りという「公共空間」は直ちに自分達の「縄張り」と化する…怒鳴り声を上げている庭のオヤジは隊にとって寸時は敵となるのであるが、こんな場合は素早く逃げるが勝ちであると知っている――とあります。

こうした例にも見られるように、わが国では公共空間に対する領域感覚は永い時間をかけて形成されてきましたが、一九六〇年代からの急激な「経済成長」は都市の膨張とクルマ社会への変容を迫り、公共交通の確立されない地方都市から、都市居住に不可欠な子どもたちの遊び空間を奪う結果となりました。

子どもの発達に直接関わる住まいの近傍と「領域感」を考えるうえで、「ガリマ隊」は(大正時代の著作であるが)、現代都市が失ってきた=街の生活感=を示す好例です。

孫と遊んでいると、子どもの成長に眼を見張る。人間の脳の発達は三歳までに八〇%六歳までに八五%一〇歳までに九〇%と聞くと(「公共空間と領域感」の喪失・二〇一四年拙著)住まいや地域環境がいかに大切であるか改めて考えるのです。

特にわが国では、「通り」機能の多様性は重大な意味をもっていましたが、通行機能以外の多様性を失う過程で、生活環境の質が急速に低下することとなりました。

ここに一九七〇年代の通りの風景を綴ったエッセイがありますので紹介します。

『ある交差点』

 ある交差点/おもちゃの車に乗って無心に遊ぶ三~四才の男の子/激しく車の行き交う横断歩道/対岸めざして愛車を操ってゆく/とても黙ってみるに堪えないが彼にはここが天下のようだ/事の恐ろしさを知っている親は「道路で遊んじゃダメよ!」と教えるが/「外へ行って遊びなさい!」と言われて育った親たちは/自らのことばの裏に移りゆく都市の姿を感じてきた/それでも子ども達には当然のこととして教えるのだ/「飛び出すな!車は急に止まれない」/交通標語にあったが今ではまちの細道までもそれが常識となって/そんな標語はいらない/「飛び出すな!子どもは急に止まれない」との想いを結果として捨て去り/そのかわり飛び出さない子どもが多くなっていはしまいか/そのうえ、とりわけ金沢の生活街路は/採光・通風はもとより社会生活には不可欠の共有領域であったが/今では騒音減となった/変化に生活を順応させるために/通りに開いていた家々の構えは閉じた形態に改められた/道はおろかつい三〇年前には自然な風景であった/寺の境内や川の浅瀬から子ども達の遊び声は消え/学校ではいじめが横行している/都市生活者の共有領域がその実態を失うとき/それらを空間的基盤としている相隣関係は次第に疲弊してゆくことだろう。 〔朝日新聞地方版紙面批評=九三年一〇月・原稿=から〕

こうして、居住地における相隣関係の中でも、とりわけ「通り」の持っていた遊び空間としての多様性の崩壊が、子どもたちの遊びを通した共感体験・領域感を育む場を喪失させてしまったのです。(こ)