ベトナム友好訪問――1974年11月16日~27日――

ベトナム友好訪問は1974年11月16日~27日にかけての12日間、私にとっても初めての海外旅行だった。思えば、長く続いたアメリカによるベトナム侵略戦争であったが、折しもこの4月30日は、サイゴン南ベトナム傀儡政権がついに敗走し解放戦線による臨時革命政府が樹立された歴史的な日である。それから僅か半年後の11月15日。

 かねて「ベトナム建築界に対する連帯支援センター」を通じて友好関係にあった日本の建築界へのベトナム建築家協会からの招聘に応じての訪問だった。その頃は、ドル持ち出しへの外貨規制があっ頃だったが、新建築家技術者集団の石川支部会員・畔柳信一氏、堀政靖氏および友人の土木技師・川島正彦氏とともに参加することになった。
 
 その年は、永山家も5月1日に二男の潤が誕生したばかりの目出度い年でもあり、勤務していた事務所の五井孝夫先生にも快くご了解をいただき、事前に金沢在住の日本ベトナム友好協会の漢方医・堀伊三男さんからレクチャーをいただき、今なら考えられないが、北國新聞の記者による取材もうけ、出発の際には金沢駅ホームで歓送会まで行われた。

 当時はドル持ち出しに外貨制限があった頃で、成田空港もまだなく羽田からの出国であった。高度一万二千メートルから見た台湾は印象深かった。香港ではトランジットで次の便まで短時間ではあるが、入国手続きをして小銭を両替し、外国人が右往左往するなか空港のトイレに入ると、出口で2mを超える黒人がタオルを渡すので洗面カウンターにコインを置く。なにか物を買うなどのサービスを受けるとチップを払う初体験。

 香港からの機内へ戻るや、様々な国籍の人たちが入り乱れ、いかにも国際線の風情。われわれはバンコックで降りるが、このあとニューデリー、カラチ、テヘランアンカラへと行く便らしい。機内食はどうだったか記憶にないが、バンコック空港に着いたのは現地時間の20時。

 外気温37度、湿度は98%はあるだろう、思わずメガネを拭いた。浅黒い空港職員もみんな薄い半袖シャツだ。引き摺ってきた重いスーツケースを預けてバスに乗り込み、ようやくマンダリンホテルに着いたのは夜更けだった。

 第一日目はバンコック市内観光から始まった。ガイドが「東洋のベニス」だというバンコックの水上生活風景は衝撃だった――その後訪れたベネチアの水上都市とはあまりの違いだ。

 第2日はバンコックの水上マーケットを舟で見学したあと、ワットアルンを見て、ビエンチャンへはタイ航空でゆく。トゥリスティック・ド・ラオスホテル。ビエンチャンでは、民芸館、ラオスの戦争記念館・寺院、市場を見学し翌日は愈々ベトナムだ。

 ハノイ・ジアラム空港まで、SU541ソ連機だ。パイロットも空軍兵士のような急降下の操縦だった。着後外貨交換、ベトナム側と打合せ、博物館、ホアンキエム湖など市内見学。愈々ベトナム友好訪問が始まった。

 このあとの記録は、友好訪問事務局の記録担当として関わった別紙の記録を参照されたい。