ベネルクス三国は、山岳地の多い日本とは違うが、その文化は?

ベネルクス三国は、国土は狭く(北海道ほど)人口密度は非常に高い。山岳地の多い日本とは違うが、その文化はどうだろうか?

☆来年は私たちも結婚50年を迎えるが、金婚式の代用で今回のベネルクスを思い立ったのも、普段歩かない罰で来年ではほんとに歩けないといけないので、1年早送りで実施したもの。希望は北欧や東欧にあるのだが、余りに移動ばかりに時間が掛かるので見送ることにした。☆ 今回はスペインやキューバ以来の久しぶりの海外旅行とあって、早くから予約していたのに、何も事前学習らしいこともできずに出発日を迎えてしまった。昨日は、統一地方選の後半が始まり、金沢市議会議員選挙の不在者投票を済ませ、身の回りのものをスーツケースに詰め込んで、早めに就寝。

☆ 4月17日、今日は前泊の日だが、名古屋城に寄ってゆくので、朝9時に自宅をスタート。スタンドでガソリンを補充し、久しぶりにタイヤの空気圧も調整して、北陸高速・森本インターから東海北陸自動車道名神高速を乗り継いで、初めての名古屋高速を丸の内で降りて名古屋城へ。途中、白山の裏側が見える、ひるがの高原SAで昼食するつもつりが降り損ねて関SAでの昼食となった。

 名古屋城では、最近完成したという二の丸御殿の復元などを見学、かつての徳川の威光を再認識することが出来た。自治体のこうした動きは、木構造文化の再確認を求める思考が働いている証であるが、単にそれだけに留まるのでは、文化の本来の力は発揮されない。現実社会への応用が進んでこそ意味がある。名古屋市はこの先、天守閣の木造化も検討しているようだが、だからどうだという意見もある。
 
 こちら名古屋は生憎の雨だったが、とりあえず、ここまでの動きは順調。車載ナビがないので、スマホのナビでセントレアホテルにセットしたら、高速ではなく下道を示したので、指示通り進んだ。市内は難なく脱出できたのに、そのあとが長かった。
 それでも途中、東海市知多市常滑市など知多半島の伊勢湾岸地域の変貌を、社内から見物することが出来た。思えば30年前に、知多半島の先端までドライブした頃とは大変わりで、今では海の近くにまで町並みが迫っている。これは、翌朝機内からも確認することができた。

 ところが、無事セントレアまでこれたのに、JTBで予約してあるはずの、セントレア駐車場の入口を見つけるのに手こずった上に、予約されていなかった。空港島へのアクセス形式が分かりにくく問題があると思ったが、初体験のこちらにも予備調査に問題があった。これが最初のトラブルだったが、なんとか屋上階に駐車することが出来た。「屋根がないのか」と思ったが、かえってホテルフロントからのアクセスはよかった。怪我の功名だったか。

☆ 4月18日、旅の第1日目は移動日だ。出国手続きを済ませ、7時間もマイナス時差のある長い空の旅に。北アルプス日本の屋根の春の雪景色を下にみて、日本海の上空を横切り、長いシベリヤのツンドラ地帯に飽き飽きしてきた頃、とうとう腰は痛くなるし、機内食と運動不足で朦朧としてきた。漸くスカンジナビア半島付け根に指しかかると、ヨーロッパにきたというイメージが湧いてきた。

 乗り継ぎのフランクフルト空港はEUの空の玄関だ。ターミナルビルに着いて、以前トランジットで入国した記憶がよみがえってきた。今では搭乗口が60もある(毎分一便の離発着)大空港になっている。最高の天気で、空港周辺の初めて見るマインツの俯瞰を満喫した。これがライン川か、曲がりくねる川面が日差しを反射して光り、高速道路は白く、森は深緑、牧草地は緑のグラデーションが美しい。

 ドイツの街まちは「砺波の散居村」ならぬ散居集落の様相を見せていて、日本の風景の特徴である、山岳の隙間に形成された僅かな平地に、集落や都市が生成するという地理的な必然性とはまた違った事情も明らかだが、風景・景観の自然的要素として、山、川、森、牧草地、街、道たちが、各々その個性を持って謳うような印象がある。この点、景観要素のあり方が、調和というよりも渾沌とした日本の大景観との余りの違いに心が痛む。

 明朝は、愈々アムステルダムの観光だ。まさにライン川の河口の水都。1960年、干拓地に出来たというスキポール(舟の墓場)空港。思えば産業革命以後、この都市が栄えるにはそれなりの理由があったようだ。空港から10分のホテル、ノボテル・アムステルダム・シティに宿泊し、明朝の朝食は6時30分で、7時30分出発だという。売店でミニワインを買ってきた。早めに寝よう。

☆ 4月19日、早朝の六時半に荷物を廊下に出して食堂へ。レストランは都心部のホテルでもあり、改修し洗練されている。あまり食べ過ぎないよう控えめに済ませて、部屋へ戻り手荷物を持ってロビーへ。愈々第一日目の出発。目的地へゆくみちすがら車内ではJTB現地ガイドの詳しい説明があって、アムステルダムの都市の成り立ちが理解できた。

 この地方は、ゲルマン人の住む地域で古代ローマ帝国カエサルの進出もあったが、湖沼地帯で役に立たないと放置されたという、ライン川のデルタ地帯だ。昭和60年代になって沼地を干拓し、空港のあるこの地区の整備された面積は、なんと国土の4分の1になるという。

 朝一番に、マウリッツハイス美術館フェルメール、ビネンホフ(国会議事堂)、平和宮を見学してから、朝一番乗りでチューリップ🌷をテーマにしたキューケンホフ公園を見学。品種は4600種類というオランダの大産業。ヨーロッパでは無敵だが、日本だけが驚異だという。収穫した花や球根は、翌日は世界中に航空便で送られる。4月はイースターホリデーがあり、日本の連休もあり多くの人出が予想されると聞いたが、早くも予想以上の人出に驚く😲広いキューケンホフ公園を一巡りし、今日は15000歩の大運動となった。

 午後はアムステルダムへ移動し、国立美術館を1時間見学。ゴッホフェルメールレンブラントと、つきない印象派の名画鑑賞が出来る美術館巡り。30年間、当地に住むという現地ガイドの説明は詳しかった。夕食は魚料理だ。

☆ 4月20日は、もう一つこの旅行の重点企画でもある、オランダを代表する風車だ。数年前のスペイン旅行での、ラマンチャ・コンスエグラの風車とは違い、キンデルダイクの風車は、今もかつての役割を再現するため一部を稼働させ、世界遺産に指定されるや、一段とその歴史遺産の技術的な意義が再認識されつつある。

 事実、風車はレンガ造4階建ての住居=一人ひとりの個室やリビング、キッチンがある=となって、家族経営で動かされていることが事実で確認できる。その昔、原初は奴隷労働で支えたという干拓事業。そうしなければならなかった風車という国土づくりの営み。この技術革新の、歴史的な意味を読み取ることがなにより大切であろう。
 
 また、風車とともに、跳ね橋の存在も見失ってはならない。ゴッホの名作「ウルルの跳ね橋」にも描かれるこの橋は、運河と水運には必須な都市施設である。氾濫など多くの失敗を重ねた干拓の歴史。今日では国土形成に不可欠な国を支える事業となっている。

 海面から4㍍低いこの干拓地が、国土面積の25パーセントを占めるオランダの泥炭地。このラインデルタが個性でもあるベネルクス三国は、地球温暖化への願いの発信地でもあろう。

☆ 4月21日、今日は既に、旅行も中日。朝8時の出発でキンデルダイクの風車を見学。2009年世界遺産に指定され一躍注目を浴びた一方で、近隣住民は多くの観光客に悩まされ、団体旅行への規制も強まっている。そのためもあってか、遠くから歩かされ、「団体ではなく個人」旅行として鑑賞しなくてはならないなど、世界遺産を維持する努力が求められている。


オランダからベルギーへ
 
☆ キンデルダイクの風車を見て、アントワープへ向かう。こちらは高速道路は全て無料だ。トールゲートは無い。4車線の高速道路を走りアントワープへ。車中、ガイドからベルギーの歴史について説明があって、「生きるために食べる」ベルギー人のこと。「食べるために生きる」のではないことについて考えた。

 この地区は、街路樹など全ての緑が計画的であるのも、国土の4分の1が干拓地であることの証左。水路の下を通る高速道路。スキポール空港でも滑走路の下には高速道路が通っている。

☆ アントワープに着くと、ノートルダム大聖堂ルーベンス絵画を中心に見学。現地ガイドの引率でイアホンガイトがはなせない、知らない国でのこの人ごみは、イースターホリデーを控えてのバカンスと重なったためとのこと。

 パリの大聖堂が火災で焼け落ちたばかりという事情もあって緊張する。初めてのアントワープノートルダム大聖堂のあと、凸凹な石畳を徒歩で見学。「地震のない」地方の建築様式の主体である組積造が、日本でのこのところの事情から考えると、耐震的には100年遅れているとさえ感じられるが、まったく地震のない国だからか、薄い組積造の壁、小さくなる煉瓦のサイズが目について離れない。ローマの建築に比して、開口部など「まぐさ構造」の安易さが目につく。

 アントワープ大聖堂、市庁舎、王宮ギルドが集まるフルン広場で1時間の自由時間。二人でコーヒーを飲んだあと、警備に当たる警察機動隊にスーパーマーケットのトイレ(0.5ユーロ)を教えて貰ったは良かったが、帰りに道がわからなくなり(ナビなし)集合時間を5分遅刻の大騒ぎだ。
 
 そのあと、我々が乗るベンツのバスはプルージユへ向けてフリーウェイを走る。ベルギーでも特異な街、ダイヤモンドの54面カットを発見したという「ブルジョア」という言葉の語源のまちでもあるプルージユ。住民は「フランスも我々に学んで発展した」と言っている。

 オードリー・ヘプバーン主演の映画「尼僧物語」=父の死後、僧職を捨ててナチに対抗することを決意した当時のベルギー領コンゴで看護師をつとめる尼僧の葛藤を、オードリー・ヘプバーンの主演で描く(ウィキペディア)=の題材となった修道院のある街。その街の構造が一目で体感できる遊覧船に乗って、二重の運河に囲まれる美しいプルージユ市街地区の景観を体感したあと、バスはブラュッセルのホテルへ。

 こちらに来てから、シャワールームだけで疲れがとれなかったが、やっとバスタブにありつくことが出来た。添乗員は、こちらの人はバスタブはシャワーの受け皿だというが、日本人には救いの器だ。翌朝は朝8時からはじまる市内見学に備え早めに寝る。

☆ 4月21日は、愈々最終日の市内観光。明日は一路帰国の途へ、機内の人になる。

 始めに車内観光でブラュッセルの主要地区を回る。その地勢のゆえに、EU本部、欧州議会のあるブラッセル。乗降のためにバスを停められる限られた地点から、まずは広場を目指して、今回のツアーの特徴である「苦難の徒歩」観光が始まる。
   
 まずは、グランプラス広場を取り巻く建築。市庁舎、王の家、ギルドハウス、ブラバン公の舘。金箔で装飾される外観の豪華さは目に止まるが、なぜかその形式に威厳を感じることはない。世界資本主義の揺籃期を象徴する広場だ。昼食のムール貝は、日本人の食感にも近く、今回の旅行では出色の料理だった。食後のフリータイムに細やかながらベルギーチョコレートなどのお土産を買い、時間までに集合場所へ。

 夕食はフリータイムという企画で、新宮から参加された西村ご夫妻と一緒に、先に見た中華料理の店を、地図を片手に探したが見当たらず、別の中華料理店に腰を下ろした。西村氏とは、2日目夕食の折にも新宮のことなど共通の話題で話が弾み、今後展望のある交流の機会となった。ホテルは昨日と同じホテル。着後すぐ風呂に入り明日に備える。

☆ 3日間のオランダ・ベルギーの旅・現地日程を終え、今日は愈々帰国だ。スキポール空港からフランクフルトへは、離陸して高度を上げるや、まもなく着陸態勢に入る。

 4日間とも、これまでの経験上あり得ない快晴だったという。フランクフルトの免税店で重いベルギービールを買い、手荷物のほうが預けたスーツケースより重い。帰りの飛行は往路と違い、水平線の向こうが微かに白む真っ暗な夜間飛行だ。

☆ 今回は、旅の日記を書いてみようと思い立ったが、単に日程を追う記録では意味がないので、印象深かったことに絞ってみた。出来ればこの記述に、訪問した各都市の歴史的経緯や経済的背景なども書き加えたい。今回は準備不足もありスマホのインターネットが使えず情報不足で、不便ではあったが返って街の景観に集中出来たともいえる。
 
 現在飛行機は大きなバイカル湖の上空に指しかかった。午前4時44分だ。名古屋へ一直線に飛行の予定。セントレアの上空は厚い雲で、何も見えない計器飛行。かなり高度も下がり、旋回すると海面に羽根が触れるほどになってやっと視界が開けてきた。着地は揺れも衝撃もない最高の出来だった。ヤンキーなら拍手喝采だ。

☆ 漸く手荷物をとり入国手続きも順調で、添乗員の福多さんや西村さんにお礼して分かれた。エレベータで3階まで上がり駐車場棟BーRFの駐車場へ。

 セントレアからの帰りは難なくいったが、名古屋高速に入るのに苦労した。前に大型車がいて標識が見えない。この手の高速は初めての75歳には無理か。四日市方面に二度も行きかけたが、どうにか一宮への正規なルートに乗りこむ。時差ボケと体調回復のため、帰りは養老SAを手始めにPAごとに仮眠を繰り返し、加賀インター辺りで調子が戻り、8号線に降りて山側道路で到着した。